代表 田村文生より


もうすぐ6月、Ensemble Contemporary αリサイタルシリーズの時期がやってまいりました。毎回、大胆な選曲と当団ならではのコラボレーションで好評を博してきたこのシリーズも今年で6年目、普段新しい音楽に親しむ皆様ならお馴染みの顔ぶれでしょう。夏田昌和プロデュースによる野口千代光・花田和加子デュオリサイタルでは、演奏家メンバーのリサイタルでありながら、同時に特定の作曲家の個展とも言うべき性格も持ち合わせます。作曲家の過去の作品と今回の書き下ろし作品、そして作曲家と演奏家2人で選んだ「他の」作曲家の作品で、スタイルを超えた作曲家・演奏家両者の芸術観が垣間見られるのではないでしょうか? これほど企画性と多様性に富んだ演奏会はそう滅多にはありません。皆さん、ぜひお聴き逃しなく!

公演プロデューサー
夏田昌和より その1


人間とは「うたう」生き物。どんな時代のいかなる文化圏であろうと、生まれてこの方なにかを口遊んだことのない人は居りますまい。圧倒的な量とスピードのデジタル情報に囲まれていても、このいわば種としての「本能」には逆らえないのも事実。なのに所謂「現代音楽」が「響き」や「構造」の探求にのみ熱心に思えるのは何故? 最早新しき「旋律」は不可能なのか? 当団体の誇る二人のヴァイオリニスト奏でる提琴の妙なる調べと、新旧東西五人の作曲家による試行錯誤の中に、果たしてその答えが見出せるのか、乞うご期待。

公演プロデューサー
夏田昌和より その2


私の作曲の師であるジェラール・グリゼイは、音楽院のある日のレッスンで我々生徒に向かい、「もし自分がいまあなた方の年齢だったら、迷わず“旋律”の探求をこれからのテーマとするだろう。」と宣ったのでした。当時すでに幾つかの作品で「新しい旋律の探求」をも試みていた私は、この時この創作上のテーマの重要性、正当性を確信するに至ったのです。所謂「現代音楽」では、屡々ありとあらゆる方法--テクスチュアの極端な複雑さ、ノイジーで捉えがたい音響、速度の両極限etc.―を駆使して、剥き出しの線が露呈するのを忌避する傾向が見受けられます。しかしながら、もしただ一本の旋律線がそれだけで私達の心を捉えることが出来たら、それは大オーケストラの作りだす豊麗な音響スペクトルと同様に素敵なことではないでしょうか? 本日の演奏会では、上記のテーマに基づく私自身の連作の他に、4つの作品が演奏されます。我々邦人作曲家にとっての偉大な先達である武満徹。20世紀後半の作曲家の中でとりわけリリックで有り続けた氏の音楽は、しかし決して大げさで月並みな感情表現に堕ちることなく、嘗てドビュッシーがそうであったかのように、常に独自のシンタックスを感じさせます。その武満と親交が深かったイタリアの巨匠ノーノの晩年の作品は、まるで音楽言語(ディスクール)の不在が、逆に我々の意識の深淵へと導いてくれるような、得難い時間体験をもたらします。それは人間の動物的感性や生理を超越した、完全にスピリチュアルな別次元の「うた」とも言えるのではないでしょうか。そして公募作品は、Bachの作品の徹底した分解・編集作業を実に現代的な「うた」に昇華しつつ、「作曲行為」そのものを問うているかのような久木山作品と、ヴァイオリンという楽器の様々な技巧を縦横に駆使しながら、我々の時代の正統的な音楽語法に沿った叙情を聴かせる池田作品。 以上計7作品の中に「失われた“うた”」の新たなる再生への萌芽を見つけることが出来るでしょうか? それではどうぞ演奏会をお楽しみください。

野口千代光より

様々な現代音楽シーンにおいて花田さんとは度々共演していますが、デュオとしての形態は滅多になく、本格的なものとしては今回の企画が初めてとなります。ヴァイオリン2本という編成は、同じ楽器ならではの音色のまじわりと同時に、2人の演奏者による多彩な表現を追究できるという性質もあり、花田さんとの音楽作りは、とても楽しく充実したものとなりました。一方、当団体ならではの取組である公募作品から、それぞれが選んだソロ作品も演奏致します。新しい出会いは新鮮で、刺激的です。これらの作品に息づいている<歌>を、ヴァイオリンのソロ、そしてデュオの世界で、幅広く表現できればと思っています。どうぞご期待ください。

花田和加子より

本日はお忙しい中お運びくださいまして、誠にありがとうございます。この度のデュオ・リサイタルは、1998年6月にこのシリーズでリサイタルを行って以来の夢の実現であり、プロデューサーの夏田さん始め、作品をご提供くださった方々、ご支援くださった方々に心より感謝申し上げます。ヴァイオリン・デュオのコンサートは、作品が少ないこともありなかなか行われませんが、ピアノとのデュオや弦楽四重奏などでは味わえない魅力があると思います。本日のコンサートで、その一部でも味わっていただければと思います。



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日時
2003年6月21日(木)18:00開演
(17:00開場、17:15-45プレトーク 話:夏田昌和)

場所
けやきホール (代々木上原駅下車徒歩3分)

入場料
入場無料・完全申込制

助成
芸術文化振興基金

後援
日本現代音楽協会



武満徹 (1930-96) / 揺れる鏡の夜明け (1983) [duo]

久木山直 (1958- ) / ボレア (1999) [野口] 
         *公募招待作品

池田悟 (1961- ) / ディフェレンシアス (2002) [花田]  
        *公募招待作品

夏田昌和 (1968- ) / 先史時代の歌 I (1999) [野口]

夏田昌和 (1968- ) / 先史時代の歌 II (2000) [花田]

夏田昌和 (1968- ) / 先史時代の歌 III (2003/初演) [duo]

L・ノーノ (1924-1990) /
      進まなければならない、夢見ながら(1989)[duo]



武満徹 / 揺れる鏡の夜明け

この作品は、アニとアイダ・カヴァフィアン姉妹によって委嘱され、1983年11月、カーネギー・ホールにて初演された。大岡信とトマス・フィッツシモンズ(Thomas Fitzsimons)による同名の連詩に基づいて作曲され、次の四つの部分から成っている。
[I] 秋‐Autumn(フィッツシモンズ)   [II] 過ぎてゆく鳥‐Passing Bird(大岡)
[III] 影のなかで‐In the Shadow(大岡)[IV] 揺れる鏡‐Rocking Mirror(フィッツシモンズ)
2つのヴァイオリン・パートに現れる共通したリズム・パターンから得られる明確な拍節感と協和音を中心とした響きの透明感が、この作品に武満の同時代の作品とは一味違った親しみやすさを与えている。しかし、一音一音にまで細かく書き込まれた奏法指示には、武満の終生変わることのない音への拘りを見ることが出来る。その結果、凝縮した作品の中で一つ一つの音がその存在感を自由に主張することができるのである。
(花田和加子・記)

久木山直 / ボレア

敬愛してやまないL.ノーノの作品と同じ一晩の中で演奏されることを大変嬉しく思っています。彼の作品がプロポーショナルな構造を基礎としているように、最近の私の作品も反復されるフレームとそのズレがつくり出す比率の上に作曲されています。ノーノの場合はミクロなレベルが1音単位まで到っているのに対し、私の場合は細小の単位がフレーズでしかない、という違いがあり、聴感上の印象を大きく異なるものにしています。弦楽器の無伴奏形態で音型のトランスポーズを行うことは、ポジション上の指の運動性、配置のためピアノやアンサンブルとは違ってかなりの困難と制限をともなっています。そうした制約の中で、伸び縮み、トランスポーズするフレーズの併置によって引き起こされる尺度の構造をどう実現させるかがこの作品を書く愉しみでした。
(久木山直・記)

池田悟 / ディフェレンシアス

無伴奏作品の桃源郷は、ただ一人の味方も持たず、かつて誰も到達し得なかった高みにまで上がりつめた先にある、孤高の境地のようなものだろうか。バッハのヴァイオリンやチェロの無伴奏作品に接すると、そう思わずにはいられない。しかしその代償として、そこには何物からも拘束されない完全な自由がある。Diferencias−この曲は変奏曲風にできているが終盤、無窮動の頂点で、1分以内の即興部分を設定した。奏者によって、ここがどう弾かれるのか、それも楽しみだ。今夕、初めての再演の機会を頂いた。
(池田悟・記)

夏田昌和 / 先史時代の歌 I〜III

私を含め、現代に生きる多くの作曲家にとって、歴史的な、もしくは個人的な「記憶」に抗いつつ「旋律を書く」という作業は、多少なりとも困難を伴うものです。私がこのヴァイオリンのための小曲集で試みているのは、“再び”「うた」もしくは「旋律」の可能性を探ること、それも、(西洋のクラシック音楽や日本の伝統音楽といった)特定の文化や歴史とは切り離された地点から、文化が様々に枝分かれし、歴史が刻まれ始まる以前のプリミティブな状態に遡って、それを実現することです。私はここで、私達が生きる21世紀初頭の“思考”と“方法”をもって作曲しつつも、結果としての音楽からは、現代の音楽に特有のフィギュアやディスクールを極力排除することに務めています。
[I] Ensemble Contemporary αリサイタル・シリーズ1999 vol.5「野口千代光ヴァイオリン・リサイタル」のために作曲された“I”は、初演者である野口千代光さんに捧げられており、全くシンプルな3つの音楽素材(伸び縮みする長-短のリズム、急激に下降する挿入句、足踏みによるパルス音)のみによって出来ています。
[II] シリーズ2作目の“II”は、友人のヴァイオリニスト中山しのぶさんからの委嘱を受けて2000年に作曲、初演されたもので、音程やテンポ、奏法を様々に変化させながらも繰り返し奏される中心モティーフと、ヨーデルにも似た地声と裏声(ハーモニクス)の急速な交替とによって特徴づけられています。その後、現音のアンデパンダン展において、本日の演奏家、花田和加子さんによって再演されました。
[III] 本日初演されるヴァイオリン・デュオのための “III”では、2台のヴァイオリン(=2人の歌い手)間での「歌い交わし」と、原始的な2声部のポリフォニーによる様々な形態が試されています。“I”と同様、4分音を用いた数種の旋法によって概ね書かれていますが、旋法内のいくつかの音は、時に上下に浮動し、確定していません。つまり奏者は「歌い交わし」の中で、絶えず音程の意識的な“取り間違い”を強要されるのです。この“III”は、もう何年にも亘って私自身と我々の時代の音楽の最良の解釈者であり、演奏において厚い信頼を寄せるパートナー、そして本日の初演者である野口、花田両氏に捧げられています。
(夏田昌和・記)

L・ノーノ / 進まなければならない、夢見ながら

「進まなければならない」、夢見ながら (1989)ノーノはある時、スペインの古都トレドのフランシスコ会修道院の壁に、“Caminantes, no hay caminos, hay que caminar”「歩み行く者よ。道はない、だが進まなければならない。」という13世紀の碑文に遭遇し、大きな感銘を受けます。一貫したコミュニストとしてユートピア思想を追い求めた彼ならではの、厳しく真摯な創作姿勢と深く共鳴するところがあったのでしょう。そしてこの体験から彼の遺作となった3つの作品群--16世紀の異端の宗教哲学者ジョルダーノ・ブルーノのテクストに基づき、ペルーの刑務所での虐殺をきっかけに書かれた、大規模な器楽と声楽、ライブ・エレクトロニクスのための《Caminantes...Ayacucho》(1987年4月ミュンヘン初演)、映画作家タルコフスキーへのオマージュでもあり、武満徹監修サントリーホールの委嘱作品として書かれた七群の器楽のための《No hay caminos, hay que caminar... Andrej Tarkowskij》(1987年11月東京初演)、そして本日演奏される二本のヴァイオリンのための《“Hay que caminar”Sonando》(1989年10月ミラノ初演)―!― が生まれました。 シリーズ三作目にして彼の最後の作品となったこの曲は3つの楽章から成り、時折噴き出す瞬間的な激しさを内包しつつも、全体としては非常な静寂(ノーノの指示は時に、チャイコフスキーを遥かに凌ぐ“PPPPPPP”に及びます!!)の内に進みます。とりわけ曲の最後においては、極限まで引き伸ばされたかすかな響きが、さらに果てしなく続く無音の中へとゆっくり溶け込んでいき、私達の精神を永遠の時へと誘うのです。
(夏田昌和・記)

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