公演プロデューサー
田村文生より


皆様 本日はお忙しい中ご来場下さいまして有難うございます。
本日の公演、塚原里江・神田佳子デュオリサイタルは、当団体代表でもある私、田村文生がプロデュースを担当します。
塚原里江は私たちEnsembleContemporary αがリサイタルシリーズを開始した年98年に、また神田佳子は2001年にそれぞれ個人のリサイタルを行って以来のリサイタルへの登場です。
私は日頃から、現代音楽にとどまらず、吹奏楽、邦楽器など、様々なジャンル(編成)に取り組んでいますが、それら多様な編成のバランスを取ること自体が作曲の作業となっている、という実感があります。また同時に、「音の曖昧さ」 のようなものが様々なレヴェルで自分の作品のテーマになっているように思います。今回の公演 「バロック−フラックス(融解・流転)」 では、バロックというコンテクストに形成された現代的空間の流動性を表すとともに、バスーンと打楽器という、独特な編成が示すミスマッチさも表しています。田村による2曲の編曲作品では、(元来「歪んだ真珠」の意味である)バロックが原形を留めないまでに溶かされてゆく姿と、逆に、溶けていた要素が次第に意味を持ち始めるという、時間と聴取の曖昧さを、デュオのために書き下ろす新作ではバロック的な音楽と対照させた私の作品に関する見解のようなものがお聴き頂ければと思っております。
一方、海外作品では、最近の政治的事件でも注目された、即興演奏中心に活動するイスラエル出身のアーティスト、ファイラーの作品に、
塚原里江が挑戦します。対する神田佳子は、複雑性とフォークロアの間を縦横に巡るイギリスの作曲家、フィニシーの超難曲で好対照をみせるかと思えば、打楽器奏者ならではの演出が見られる新作も書き下ろします。
バロック時代に源流を持つヴィルテゥオーシティを現代に受け継ぐこれらの作品と共に、ファゴットと打楽器というユニークな組合わせで現代的に解釈されたバロックという、不均衡で極度な「フラックス」空間をお楽しみ頂けると思います。 皆様、ごゆっくりお楽しみ下さい。

塚原里江より

98年のEnsemble Contemporary αリサイタルシリーズで初めて自分のリサイタルをして以来、6年が経ちました。今回は私にとって挑戦的な曲が多いですが、作品の内容と私なりのこだわりが、演奏を通して聴衆の皆さんにお伝えできればと願っております。また、神田佳子さんのユニークな曲でのコンビネーションも「タップリ」楽しんで頂ければと思います。

神田佳子より

Ensemble Contemporary αの演奏会では、塚原里江さんのソロリサイタルでの共演以来、「この2人でコンサートをしたら面白い事ができるのでは?」と思い続けていましたが、今回それを実現できることになり、嬉しく思います。普段色々な種類の楽器と共演する機会がありますが、ファゴットと共演というのは、なかなかなく、私達2人を組み合わせていただいたコンテンポラリーアルファーのメンバーに感謝いたします。


日時
2004年6月30日(水) 19:00 (18:30 開場)

場所
すみだトリフォニーホール・小ホール
JR総武線・錦糸町駅 ・北口・東京メトロ半蔵門線3番出口から徒歩3分。駅前広場から道路沿いに左方向

入場料
全席指定 \3500(当日) \3000(前売)
学生割引=\1500(事務局前売りのみ)
リサイタルvol.14、vol.15 の2公演通し割引=¥5000

助成
財団法人 ローム ミュージック ファンデーション,
芸術文化振興基金

後援
日本現代音楽協会



(開演のファンファーレ)
モンテヴェルディ=田村文生 (2004/初演) [fag]

マイケル・フィニシー / 火の見 (1979/日本初演) [perc]

 

モンテヴェルディ=田村文生 /
「聖母マリアの夕べの祈り」より(2004/初演) [
fag]

 

神田佳子 / TAP CATS 〜ファゴットとパンデイロのための
(2004初演) [
fag & perc]

ドロール・ファイラー / カヴァナ (1986) [fag]

 

バッハ=田村文生 /「主よ、人の望みの喜びよ」より (1998) [perc]

田村文生 / Intonation (2004/初演) [fag & perc]



(開演のファンファーレ) モンテヴェルディ=田村文生

6声の合唱と器楽による第1曲 Domine ad adiuvandum 「主よ,早く私を助けに」 の編曲。冒頭のファンファーレはオペラ 「オルフェオ」 からの転用としても知られるが、フォ・ブルドン部分(合唱部)の音価の超縮小、ファンファーレの音高・リズム変換、リトルネロ旋律の変形を施した。

マイケル・フィニシー / 火の見

この作品は、優れた打楽器奏者、エリザベス・デイヴィスのノッティンガム大学修了演奏会のために、大学により委嘱され作曲された。デイヴィスはその後、ensemble'Expose'に所属し、ダルムシュタッド講習会等で演奏、現在ポルトガルで活躍している。
Hinomiは、音の洪水とも言うような、速く装飾的な動きを基にした様々な変化形、そして多様な共鳴音(火の見の鐘の警報音の如くドライな響きではあるが)を持った、孤立・分断された打撃音(アタック)によって構成されている。曲の終結部あたりで鳴らされる鐘の音以外は、特に音楽が文楽の筋書きを追うものではなく(注)、一定の音色と、その限定された音域やリズムパターンを原型とした短いエピソードによる一種のモンタージュ的に構成されている。曲調はむしろ、「劇的」 に、そして 「曲芸的」 に緊張や興奮を描くようにデザインされており、この音楽は抽象性や両義性(曖昧さ)の一つの段階である。
訳注:この作品のタイトルは、日本の文楽作品「伊達娘恋緋鹿子(だてむすめこいのひがのこ)」の「火の見櫓の段」に因んで付けられた。
なお、この解説は、Michael Finnissy氏自身によって、今回のリサイタルのために寄稿されました。(翻訳・田村文生)

Michael Finnissy
1946年ロンドン生まれ。Royal College of MusicにてB.スティーブンスとH.シーレに師事。ロンドン現代舞踊学校の音楽学部の設立に参画したことを機に、様々なダンスパフォーマンスのために作品を提供。ダーティントン・サマースクール、ウィンチェスターカレッジ、ヴィクトリア芸術大学など、各地で講師・客員講師として招かれ、現在、サセックス大学と王立音楽院で教鞭をとっている。1990年から97年まで、ISCM(国際現代音楽協会)の会長を務めたあと、ラルフ・ヴォーンウイリアムズ以来、英国で2人目の終身会員となる。バース音楽祭、ハダースフィールド音楽祭、アルメイダ音楽祭などでの特集作曲家として作品が取り上げられているほか、1996年、フィニシーの50歳を記念して、ピアニスト、イアン・ペースがピアノ作品全曲演奏会を6晩にわたって開催した。

モンテヴェルディ=田村文生 /「聖母マリアの夕べの祈り」より

ソプラノと8声の器楽による第11曲 Sonata sopra “Sancta Maria, ora pronobis” ソナタ 「聖マリアよ,私たちのために祈りたまえ」 の編曲。原曲を可能な限り(?)保ちつつも、それらが様々な側面から侵食され溶けてゆく。それでもなお、リズムや音型は原曲の影を色濃く残している。

神田佳子 / TAP CATS 〜ファゴットとパンデイロのための

「TAP DOGS」 というショーがあります。この作品の題名はそれに対抗してつけました。それも、あたかも2匹のネコが踊りながら現代音楽をするかのように!? さらに今回のコンセプトに合わせて、曲全体にバロック音楽からの引用を融合させてみました。 この2人ならではの作品となっておりますので、本番どのような演奏になるか、私自身も大変楽しみにしています。 こう御期待!
(神田佳子・記)

<神田佳子 主な作品>
 ・メッセージより 「木」 [3perc] (1995)
 ・Emotion〜三人の打楽器奏者のための (1996)
 ・Graffito [3perc] (1996)
 ・ING [3perc] (1996)
 ・2435 [pf, perc] (1996)
 ・やぶかの飛行 [vn, pf, perc] (1998)
 ・CONGing [perc] (1998)
 ・箏と打楽器のための練習曲 No.1 (1999)
 ・アンコール [fl, fg, trp, pf, perc] (1999)
 ・笙とカエルの木魚のための 「美一八言」 (2000)
 ・かえるの歌 [3perc] (2000)
 ・プレリュード [perc] (2001)
 ・No Sleeves [vn, mar] (2002)
 ・大きな欅の木の下で [perc] (2002)
    ・・・他多数。

ドロール・ファイラー / カヴァナ

1951年イスラエル・テルアビブに生まれ、1973年にスウェーデンに移住、ストックホルム州立音楽大学にて作曲をG.バハト、S.D.サンドストレム、B.ファーニホウに師事した後、1976年よりサクソフォーン、クラリネット、打楽器、電子楽器奏者として、彼自身が設立しリーダーを努めるグループLokomotive Konkretで演奏、以後約20年間に渡り、スウェーデン、ロシア、イスラエル、ドイツ、フランス、日本、コロンビア、アメリカで演奏・録音・・・・という経歴を持つファイラーは、即興演奏を中心に活躍する作曲家であり演奏家でもある。 「即興演奏というものは、歴史を背後に背負った作曲手段を根源的なものにいかに導いてくれるか、ということを認識させる。」 と語る彼は即興演奏と譜面に書かれた作品の境界を行き交う存在として、ドナウエッシンゲン音楽祭などでも、その 「書いた」 作品が演奏され注目されている。
一方で、「スウェーデン・イスラエル−パレスチナ和平ユダヤ人会」 の会長をも務め、「即興演奏は、官僚主義や技術主義的社会から開放を試みる本能的活動として解釈できる。」 「私の音楽は集団的概念の集結による個人的エネルギーによって開花する。」 「抵抗は現代の社会状況において、強固な自己防衛の芸術を創造するための重要な要素である。」・・・などの政治的な発言、「第二次大戦で犠牲になったユダヤ人と共産主義者に捧ぐ」 というという副題の付けられた作品などは、最近世界のメディアを賑わせた事件の関係者(被害者)ということも納得されられる。
政治的言動もさることながら、彼の音楽自体は西欧的方法論から逸脱したものとして、特異なキャラクターを放つ。それは、非常に持続的で動的な要素が混合されつつも、西欧的方法では到底把握できない作品構造や音色の構成(趣味)などであろうか? 彼は「動機、発展性、音強、文節、クライマックス、構造、楽器編成など、20世紀初頭から所謂西洋音楽が問題として扱いってきたものに依存して書かなければならない、ということに当惑した。」 と、その創作活動の初期である1980年ごろの心境について述べているが、1986年に作曲されたこのKavanaは、そのような意識が反映されているのであろう。この作品においては、西洋的な意味での形式や構造に類するもの、またそれらを統合しようとするような意識は微塵も感じらないばかりか、音の細部の動きとその意味性について思考することすら、意味を失ってしまうかのようである。ただただ、限定された響き(音高)の持続性のみが現れているのだが、それがミニマル音楽のような、時間感覚の異化に繋がっているとも思えない。「この曲は宇宙と交信しているような感じ」 と、演奏者塚原は言ったが、我々が普段聞き慣れているような 「現代音楽」 の範疇から逸脱した文法であることは間違いないであろう。

バッハ=田村文生 /「主よ、人の望みの喜びよ」カンタータ第147番より

この、あまりにも有名なコラール。しばしば 「旋律」 と誤解される伴奏の8分音符の連続。これほど 「伴奏」 が有名な作品は少ないだろう。バッハが書いた8分音符が、明確なピッチを持たない打楽器に割り振られ、およそ原曲が想像つかない状態から始まる。そして徐々にそれぞれが一定の音高に固定されてゆき、原曲のようなものが姿を表そうとする・・・・という、非常に単純な 「編曲」 。しかしその過程での、原曲の「一部」 が原曲らしくなく響く部分は、音組織・音楽、そしてその聴取について、様々な思考を廻らせる。

田村文生 / Intonation for bassoon and percussion

ルネッサンスからバロックの音楽のフィグールのような、音の運動とその意味 (もちろん、リズムなど、音高以外の要素も、フィグールを形作る重要な要素だが・・・) は、その具体的な意味付けすら廃れてはいるものの、当然のことながら現代の音楽の中にも、「音のしぐさ」 というような言い方をされながら密かに(?)存在するのであろう。一方、リズムやテクスチャーが限定され、和音の推移や交換によって時間が分節・構成されてゆく音楽 (例えばバッハの平均律の第1番前奏曲のような)。 私はこれをイントネーション(抑揚)として捉える。それは 「和音の推移」、あるいは古典的な音楽であれば 「旋律の抑揚」 のような言い方と、「ほぼ」 一致するのかも知れないが、例えばミニマル音楽の暫時的変化、あるいはパラメトリックなものにほとんど意義を見出さないような音楽も視野に入ってくると、単に音の運動や響き、リズムだけではなく、その他の要素をも一定の時間構造の中で包括し、一般化する 「イントネーション」 という言葉が作曲の作業に常にあるようだ。
この作品<Intonation>を構成する音楽には、以上のような意識が反映されている。どちらかというと、「旋律」 の意識が強いのであろうか、「関係」 としての対位法や、背景としてのテクスチャーは、少なくともそれが明確に意識されるような部分は一切存在しない。 ただ単に単一の音の連続、バスーンと打楽器とで音が交換されるような部分、もしくは音の同時的関係は確かにあるのだが、もちろん、多声的に聞こえる部分は無い。しかし結局、細部のイントネーションと、それよりも少し大きな枠でのイントネーションとの組み合わせや関係に依存しているのだから、例えば古典的な無伴奏の器楽曲のような音楽と、ほとんど変わらないのかも知れないが、旋律 (と解釈されるような部分) を形成する音組織の特徴が、非常に部分的なものの組み合わせとして配置されていることによって生まれる 「意味の錯乱」 (大袈裟な言い方だが) が、聴取態度を危いものにさせる。

(以上、特記のないものは田村文生・記)

Home>Archive>リサイタルシリーズ vol.15